印鑑を買う

新しい年が明けました。
暮れにインフルエンザになり、周りの方に助けられ仕事を休ませて頂きました。普段から他人に頼ったり迷惑をかけるのが本当に嫌いなので、インフルエンザでもなければ仕事を休むこともなかったはずです。
12月は多忙を極め、自身が体調を崩していたこともあり無理が募っていたのでしょう。何年かぶりに元日も自宅でゆっくりと過ごせ、新しい年を穏やかに迎えられたことが大変嬉しく感じました。

実印にする為の印鑑を新調し、今年は希望に溢れた素晴らしい年になることを予感しています。感謝を忘れず、楽しむことを怖れず、しっかり前方を見据えて今年を彩っていきたいと思います。

朝10時
フライドポテト、肉まん、サンドイッチ
昼3時
カップラーメン、おにぎり2つ
夕方6時
コロッケパン、明太子パスタ
夜9時
ラーメン、ミニスタミナ丼
夜中12時
お茶漬け

中絶当日
昼3時
かけそば天丼セット
夕方5時
棒飴5本、ドライマンゴー、バニラマフィン、せんべい、野菜チップス、いちごジュース、黒酢ドリンク
夜18時
ちゃんぽん、黒糖パン
夜21時
おでん、寿司
夜中12時
ピザ、フライドポテト、オレンジジュース

備忘録

12月はじめに市販の検査薬にて妊娠が発覚し、すぐに病院へ。妊娠4週目と診断され、彼に告げる。その夜お互いに話し合い、中絶したほうがよいと言う彼と産みたいと言う私で意見が分かれる。
妊娠の喜びが少なからず母体にはあって、もちろん私の産みたいは感情だけのものである。そして、タイミングは望まなかったとしても、できた子どもをおろす選択肢は私のなかになかった。
一日空けて、私もいくらか状況を客観的に見られるようになったので、改めて彼の意見を詳しく聞いた。男は頭で考える。生まれていない子どもは彼にとって実感の欠片もないようだ。
整理すれば、経済的にもう少し余裕を持ってからが望ましい事と、起業するにしろ会社を続けるにしろ、経営が安定して生活基盤が整った頃に迎えたいと。何より、一年後の入籍をしてから順を追ってやっていきたいとのこと。

そのすべての意見に納得してから、私はただひとつ「子どもを作らない理由としては大いにわかるが、できた子どもをおろす理由にはなっていない」と主張した。

彼はそれも承知していると。倫理的に考えて中絶が正でないことは重々承知していると。何よりつらいのは君だ、と。

私は頭で考えることにした。仮に産むとする。私は全力で愛そう、育てる決意で産む。そのとき彼は?望まなかった子を共に育てられるのか。どんなにか可愛いであろうその子が、彼にとっては障害でしかないのか。生まれたその子は幸せといえるのか。出産はひとりでも可能だ。彼と別れて、ひとりで産んで育てるか。

どれを選んでも間違っている気しかしなかった。それでも異常な食欲と胃のむかつき、張りっぱなしの下腹部、これまでと違う自身の身体が、子どもを産む準備をどんどん整えていっているのを感じた。

お医者さんに6週になる頃までに決断したほうが良いと言われていたから、2週間は自問自答の日々であった。職場ではいつも通り仕事にあたり、実家の両親には言えず、すでに子どもを持っている友人にはとても言えない。唯一相談に乗ってもらえたのが妹であった。検査薬にて発覚したときから手術が終わるまでこまめに連絡をくれ、一番つらいときに本当に支えになってくれた。強く、明るく励ましてくれ、感謝しかない。

世界の色がなくなったように感じた2週間が過ぎ、再び病院へ足を運んだ。前回よりも大きな、分娩を扱っている産婦人科だ。受付を済ませ、問診票を書き込んでいった。

妊娠の継続を希望しない

その一文に○をつけて他の事項をくまなく記入し、受付に渡す。ここへ来る3日前、彼と彼のお母さんと食事をした。この妊娠が発覚するより前に約束していたとはいえ、正直とても行く気分にはなれなかった。彼のお母さんには良くしてもらっていて、今後も良い関係を続けていきたいと思っている。

彼は若くして結婚し、経済的理由で関係性が悪化し、その後離婚している。そこには子どもがひとりいて、相手方に渡している。彼のお母さんは、もう彼に同じ失敗をしてほしくないと言う。親としては当然の感情と言える。そして相手が私なら大丈夫だと感じているとも。今のうちにふたりでたくさん楽しんで、たくさん稼いで、安定させときなさい!そう言いながら美味しそうにお寿司を食べている彼のお母さんを見ていたら、私の気持ちは次第に決まっていった。

食事の帰り道、車のなかで私は彼に伝えた。おろすことに決めたと。彼は驚いて、それ以上に安堵していた。その表情は私にとって情けなく、なぜかいとおしく見えた。少し遅れて次の瞬間、涙がこぼれてきた。この子ができたことを喜んでくれる人は誰もいない、唯一守れる私がこの決断をしたことで、いよいよ運命は決まったからだ。

それでも私は中絶を決心した。産むのは簡単だ。すべての問題はそのあとである。今の私たちでは、この子を幸せにしてあげることはできない。この子を殺す罪を一生涯背負って生きていく事を、このとき深く心に刻んだ。

中絶する意思を固めてから来院しているのを知ると、なにも尋ねずお医者さんは中絶方法の説明を始めた。それから手術の日程を一緒に決め、最後に感染症の検査を受けてその日の診察は終わった。

帰宅して、彼に手術日を伝えた。1週間後に決まったので付き添いはしてもらえないが、結果的には付き添いがなくて良かったと思っている。手術が終わった直後、もし彼と顔を合わせていたら嫌いになっていたかもしれない。そう思えてしまうような不安定さが、術後の私にはあった。そしてその夜、布団の中でひとり嗚咽し泣いた。昼間に見たエコーで、ぴくんぴくんと動いていた小さな我が子を思うと、止めどなく涙が溢れた。翌日はひどい顔で、職場では面白おかしくみんないじってくれた。なにも知らない他人が救いになることもあると知った。


手術室で天井のライトを見つめていたとき、私の心には何もなかった。後悔も懺悔も、哀しみという単純な感情さえもなく、たった今から自分のせいで、ひとつの命がこの世から絶たれる事実を、全身で感じて覚えていなければいけないという使命感だけで、息を吸い、息を吐いた。看護師さんがリラックスさせようと話しかけてくれる。上の階は妊婦さんが入院しているフロアなので、食事の支度をする音や、ナースコールの音、赤ちゃんの鳴き声も聴こえてくる。そのすべてが清らかで、かけがえのないものに思えた。自分が穢らわしくも感じた。思わず「中絶の手術なのに、こんなに良くしていただいて心苦しい思いです」そう言葉に出ていた。ふたりの看護師さんは驚いて、困ったように笑っていた。

分娩台の上で待機して15分ほど経った頃、お医者さんが入室し手術が始まった。午前10時過ぎだった。「なにも心配いりませんからね」お医者さんにそう言われ、こわばっていた身体の力が抜けたのを覚えている。そしてすぐ看護師さんから麻酔の針が打たれた。16、17、まで数え「18は言えないな」「楽になれる」そう思ったつかの間、瞼の裏に白いカーテンが降りた。

気がついたとき、まだ分娩台の上にいた。自力で移動車に乗り移り、エレベーターの中で泣きながら看護師さんにお礼を言っていた。麻酔が残っていて、心も頭もぼやけているのに涙だけが勝手に流れ続けた。部屋に戻り、泣きつかれて少し眠った。

二日酔いのような感覚の中で、私は哀しみより安堵に包まれている自分に気付いた。日常が戻ってくる事への安堵。翌日からまた仕事がある。また全力で仕事に打ち込める、そう思ってしまった。
改めて、妊娠に対する認識の甘すぎた自分を恥じた。部屋のベッドの上で、痛みも気持ち悪さもなく温かい布団をかぶり、中絶手術を無事終えた安心感で再び眠りについた。

保証書の頁追加

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手応えもあり、しかしながら改善点も多くあり。評価は他人がするものだから、必要以上に反省するのはやめよう。すべての答えは、目の前に広がったその光景。そして明日から、さらに、徐々に明かされていく。
どんな景色が見えてきても、悲観せずにいよう。また舵を取りなおしていく忍耐力と、どんな景色も真っ直ぐ見つめられる勇気を、自分の中に持っていよう。

私を作っているのは

、自信だ。

自信、それは自分への信頼。
私はそれを心の栄養として、力を出すことができる。そのとき、昨日までは到底できなかったように思えることができるようになっている。

新しいチャレンジを、するかしないか、その扉を選ぶとき、私はいつもするほうの扉を選んできた。だから、世界はいつも私をウェルカムで迎えてくれる。

そうして一枚ずつ開いてきた扉の数は、自分への信頼となっている。そのひとつひとつの光景やそのときの心情は、私だけが思い出せる私だけの保証書。

またひとつ保証書の1ページが増えた、11月8日。私にできないことはない。努力やイマジンは裏切らない、それと私が一体である限り。

楽しんでいこう。そう思った。